河田 貞(かわだ さだむ)

河田貞氏は根来塗研究の権威者であり、奈良国立美術館学芸課長、文化庁文化保護審議会専門委員、奈良大学教授などを歴任され、根来塗関係の殆どの書冊を執筆されています。文化庁長官表彰受賞者 根来塗師 池ノ上 辰山の師であり、共に尽力し和歌山県の根来の地に中世の「根来塗」を「辰山の根来塗」として復興しました。
先生は数多くの「根来」の展覧会を美術館等で監修されています。最後に監修されたMIHO MUSEUM(滋賀県美術館)朱漆「根来」の展覧会では、先生の力で膨大な数の根来が集められ、日本の殆どの根来がMIHO MUSEUMに結集しました。この展覧会は偉大な功績であり、その偉勲は、根来ひいては日本にとっての宝と思っております。

先生とのこのサイトの最終的な打ち合わせの中で先生はお亡くなりになりました。その時のあまりにも急な出来事に絶句し、衝撃と驚き悲しみの中私自身がこの河田先生のページを触れたくありませんでした。元々この根来塗のウェブサイトは河田先生のためのサイトであり、日本で根来塗の事をお話し出来るのは私の知る限り河田先生以外にないと思っております。
この河田貞ページを作るにあたり、御協力して頂いております方々並びに私辰山に御協力頂いている方々にこのページを借りて厚く御礼申し上げます。
先生との約束を果たせないとの想いから、ここに先生との約束のページを開かせて頂きます。

根来塗師 池ノ上 辰山

先生

根来塗権威者 河田 貞

根来塗の提唱

「根来」と「根来塗」の違い。

先生は学術的見地から美術館、博物館、根来の展覧会で「根来塗の提唱」をお話しになっておられました。
本来、今現在立証されております「根来塗」は、このページで紹介しております重要文化財である茨城県六地蔵寺「布薩盥」と河田氏と辰山が現代に復興した根来塗だけです。それ以外の確定できない中世の朱塗りの漆物も数多くあり、それは「朱漆器」としてしか表現できません。そういう意味からもこれまで通り「根来」と呼んでも良いとお考えになりました。その事から、最後に監修されたMIHOMUSEUM朱漆「根来」の展覧会名も見えて参ります。

撮影者:山崎兼慈

根来

瓶子  MIHO MUSEUM

「根来塗」の産地は。
今は産地名ではなく商品名として数多くの根来塗。

「・・塗」と表現するのは今現在の表現であり、中世にこの言い方はありません。この表現は産地名を表すものだというのが先生のお考えです。根来塗も同じですが和歌山県以外の人が商品名として根来塗を用いる現代においての有様は渾沌としています。根来塗を産地名としているのは当産地「根来寺根来塗」だけです。当産地では中世の技法による根来塗を作り、80名程で活動しておりますが、中世の技法を習得するのが大変難しく、脱落する者、技法を習得できず他産地で活動する者も多々あり、今現在中世の技法で全く同じ「根来塗」を作ることが出来るのは、技法を解明した辰山と直弟子松江の2人だけです。

「根来塗」とは。

「根来塗の提唱」の中で、今の技法で作られた漆物を根来塗とは呼びません。一般的に沸騰した熱湯を注ぐとダメージを受け破損の原因になりますが、中世もしくは辰山の作った「根来塗」は沸騰したお湯も角にダメージを受けてもはがれにくく、下地で大切なのは紙や薄い布ではなく頑強な布を漆で張り、それが見えなくなるまで下地をする中世の本堅地が基本となります。布を張り込んでいなければ本体自身が割れてしまうので何の意味もありません。 本来、根来塗とは焼き物より強いと言われた所以です。

変化していく根来塗。

中世の幻と言われた技法はその堅牢な下地かが下塗りの黒の層、上塗りの朱の面を保持し、欠けにくい即ち擦れ摩耗により少しずつ減っていき、初め朱一色の根来塗は徐々に上塗りの朱かが減り中塗りの黒が見えて参ります。まるで曙のように変化していく、それが用の美「根来塗」です。

河田先生とともに・・・現代に。

河田先生の研究と池ノ上辰山の髹漆が結び合うことにより、共に尽力し解明された中世の技で、全く同じ「根来塗」を今現在つくることが出来るのは、 池ノ上 辰山 と直弟子 松江 那津子 の2人だけです。 和歌山には多種多様な根来があり、その基として根来の地の「辰山の根来塗」があると考えます。

根来と根来塗と朱漆器が
根来塗研究の権威者 河田 貞氏により提唱されました。

―――――― 中世の幻と言われた技法。

河田先生の研究と池ノ上辰山が 共に尽力し解明された中世の技法。

このサイトでの根来塗の提唱は、河田先生から私の意見も入れて欲しいとお言葉があり、辰山の考えも入っております。 この内容は先生が亡くなる前に私と打ち合わせた内容です。

細工根来寺重宗 六蔵寺二對内 本願法印恵範
細工根来寺重宗 六蔵寺二對内 本願法印恵範

朱漆「根来」 - 中世に咲いた華

MIHO MUSEUM

監修  河田 貞

この事により根来塗の権威者 による定義は、曖昧であった根来塗に一筋の光明を導きます。
MIHO MUSEUM (美術館)での「根来」展 館内解説映像でも「根来塗の提唱」が主唱されています。 最後におこなった MIHO MUSEUM での展覧会は根来の 知名な 殆どの物を出していくという壮大なものでした。

MIHO MUSEUM
桑原 康郎 桑原 康郎

 池ノ上さんとお会いしたのは、先生と根来寺をご訪問した時だったと思います。門前に位置する岩出市民俗資料館さんの工房でのことです。先生とお二人で研究された工程を一つひとつ大切に作業されているお姿が印象的でした。また、展覧会用にとお願いした作業工程のビデオ撮影も楽しい思い出です。

 根来塗は豊臣秀吉による根来攻めにより途絶えてしまいます。しかし、文献に根来塗が登場するのはそれ以降なのです。私は、根来寺が焼打ちになったことで、寺の什器であった根来塗が巷間に流出し、皮肉なことですがそれによって根来塗の優秀さが広まり、江戸時代中期にはその名が朱漆器の代名詞として使用されていたと考えています。明治維新後には、廃仏毀釈によって各地の寺院からも大量の朱塗りの什器類が流出し、根来寺由来以外のものにもその名が冠されたのでしょう。現在では、大英博物館、メトロポリタン美術館などでも「Negoro」の名で収蔵品の検索ができ、国際的な名称にまでなっています。

 根来寺由来でないものに「根来」の名称がつく混乱に対し、「根来塗」と区別して一定の定義を与えたのも河田先生でした。その定義に沿って工程を検証し、実行されたのが池ノ上さんの根来塗、500年以上昔の「根来」の姿が再現されたのです。私はこの意味でも池ノ上さんの仕事に大変期待しています。「根来の美」の追求からよみがえった工法を継承し、500年後の美術品を生み出しているという事実です。そして、この根来塗がその真価を発揮するのは美術館などではありません。実際に使われる信仰の場などに、もっともっと入ってゆくことを切に願っています。